2006年 01月 17日
PRIDE無差別級GPを、敢えて肯定的に見てみる
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かねてより話のあったPRIDE無差別級GPの開催が、正式決定して発表された。この賛否については、様々なブログや掲示板で議論になっており、自分も体重差などの安全性の問題から、開催には否定的なのだが、今回はこの問題には触れず、当ブログにおいては別の側面から考えてみる。
無差別級GPの話が出たときから書こうと思っていて、結局は時期を逃してしまったのだが、自分は無差別級GPを確実に開催する、と思っていた。その理由としては幾つかあるのだが、まずは格闘技が娯楽であるということ。93年に設立されたK-1を皮切りに、現在では一般層まで格闘技は浸透している。放送用のコンテンツ・イベントとして確固たる地位を築いてはいるが、その本質はショーアップされた娯楽である。柔道や空手に始まり修斗に至るまで、ストイックに強さを求める格闘技は地上波放送用の優良ソフトには成り難い。マスを相手に商売をするには華やかさに欠けるこれらの格闘技は、その本質においては「競技」としての側面を強く持つからだ。つまり一般層に浸透させるには、「競技」としての性質よりも「娯楽」としての性質を前面に打ち出さねばならない。その最たるものがK-1であるが、結局は娯楽というものはいずれ消費され、飽きられる事が決定付けられている。同じ事を繰り返していては消費者飽き、離れて行ってしまう。
そしてそれは、一般層に限った話ではなく、コアなファンにおいても同様だ。2003年からはミドル級とヘビー級が交互に開催されてきたPRIDE GP、本来ならヘビー級の開催が予定されていた本年ではあるが、本当にそれだけでファンは満足できるのか。昨年は打倒ヒョードルが期待されていたミルコ・クロコップがベルト奪取に失敗し、昨年末はズールを秒殺し、その圧倒的な強さを知らしめた現在、今までに無くヒョードルの王座保持・長期政権の気配が濃厚になっている。GPを開催しても、どうせヒョードルがまた優勝だろ、と言う声は頻繁に聞かれるようになったが、恐らくそれはDSEも考えているはず。ハント待望論などは、この長期政権の気配に対する、変化を求めるファンの心理の表れであろう。以前にミドル級でヴァンダレイ・シウバが無敗を誇り、絶対王者として君臨していた時期、これに対して一部のファンが飽きてきている気配があった(もちろん強い王者を求める心理もファンにはあるのだが)。格闘技のファンは、エキサイティングな展開を求める。一人の人間がベルトを保持し続ける状態が続いては、変化が無くマンネリ気味になってしまう。そう、同じ事を繰り返していては消費者飽き、離れて行ってしまうのだ。
そこで、無差別級GPだ。当然ながらこのような形で開催すれば、ヒョードルがベルトを腰に巻く可能性は一段と高くなるのだが、DSEサイドとしては全然問題にならないだろう。ここで問題となるべきポイントは、ファンが満足できる新たな試合を提供できるか、ということだ。つまり最終的な結果ではなく、そこまでの過程に価値を持たせようという事だ。最終的に誰が勝つか、というポイントにファンの興味を引き付けるには、ヒョードルに対する有力な挑戦者に欠ける。しかしGPを無差別級にし、参加選手の階級の枠を取り払うことで、今までに無かった新鮮味のあるマッチメークが可能となる。当然ながら、選手間の体重差の広がりによる安全性の問題には考慮せねばなるまいが、ファンに対して様々な魅力的なカードを提供できるのも事実。そして現に、階級の枠を越えて行われた試合にはハント対シウバという名勝負が存在するし、2004年のヘビー級GPでは本来ミドル級のランデルマンが台風の目となり、GPを盛り上げたことも申し添えておきたい。
そしてもう一つ触れたいのが、既に一度開催しているという事実だ。記憶の彼方に置き去りにしている人もいるかと思うが、一番最初に開催されたPRIDE GP2000、この大会は無差別級だった。その後、2001年にはヘビー級・ミドル級が設立され、階級分けが進んだために無差別級は開催されなくなっている。しかしPRIDEの最初の設立の理念は「最強を決める」というもので、そもそも階級の枠を超えて戦うことを前提としていた。そうした意味で、PRIDEが無差別級を開催する下地は存在したし、設立当初の姿に返っただけ、と言えなくも無い。
ここまで主催者側に立った見方をしてきたが、最初に述べたように、自分の意見としては安全面を考慮すると否定的な立場だ。しかし既に開催は決定した。後はこの決定がPRIDEにとって、ファンにとって、そして何より危険を冒してリングで戦う選手にとって良い結果をもたらす事を期待する。
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無差別級GPの話が出たときから書こうと思っていて、結局は時期を逃してしまったのだが、自分は無差別級GPを確実に開催する、と思っていた。その理由としては幾つかあるのだが、まずは格闘技が娯楽であるということ。93年に設立されたK-1を皮切りに、現在では一般層まで格闘技は浸透している。放送用のコンテンツ・イベントとして確固たる地位を築いてはいるが、その本質はショーアップされた娯楽である。柔道や空手に始まり修斗に至るまで、ストイックに強さを求める格闘技は地上波放送用の優良ソフトには成り難い。マスを相手に商売をするには華やかさに欠けるこれらの格闘技は、その本質においては「競技」としての側面を強く持つからだ。つまり一般層に浸透させるには、「競技」としての性質よりも「娯楽」としての性質を前面に打ち出さねばならない。その最たるものがK-1であるが、結局は娯楽というものはいずれ消費され、飽きられる事が決定付けられている。同じ事を繰り返していては消費者飽き、離れて行ってしまう。
そしてそれは、一般層に限った話ではなく、コアなファンにおいても同様だ。2003年からはミドル級とヘビー級が交互に開催されてきたPRIDE GP、本来ならヘビー級の開催が予定されていた本年ではあるが、本当にそれだけでファンは満足できるのか。昨年は打倒ヒョードルが期待されていたミルコ・クロコップがベルト奪取に失敗し、昨年末はズールを秒殺し、その圧倒的な強さを知らしめた現在、今までに無くヒョードルの王座保持・長期政権の気配が濃厚になっている。GPを開催しても、どうせヒョードルがまた優勝だろ、と言う声は頻繁に聞かれるようになったが、恐らくそれはDSEも考えているはず。ハント待望論などは、この長期政権の気配に対する、変化を求めるファンの心理の表れであろう。以前にミドル級でヴァンダレイ・シウバが無敗を誇り、絶対王者として君臨していた時期、これに対して一部のファンが飽きてきている気配があった(もちろん強い王者を求める心理もファンにはあるのだが)。格闘技のファンは、エキサイティングな展開を求める。一人の人間がベルトを保持し続ける状態が続いては、変化が無くマンネリ気味になってしまう。そう、同じ事を繰り返していては消費者飽き、離れて行ってしまうのだ。
そこで、無差別級GPだ。当然ながらこのような形で開催すれば、ヒョードルがベルトを腰に巻く可能性は一段と高くなるのだが、DSEサイドとしては全然問題にならないだろう。ここで問題となるべきポイントは、ファンが満足できる新たな試合を提供できるか、ということだ。つまり最終的な結果ではなく、そこまでの過程に価値を持たせようという事だ。最終的に誰が勝つか、というポイントにファンの興味を引き付けるには、ヒョードルに対する有力な挑戦者に欠ける。しかしGPを無差別級にし、参加選手の階級の枠を取り払うことで、今までに無かった新鮮味のあるマッチメークが可能となる。当然ながら、選手間の体重差の広がりによる安全性の問題には考慮せねばなるまいが、ファンに対して様々な魅力的なカードを提供できるのも事実。そして現に、階級の枠を越えて行われた試合にはハント対シウバという名勝負が存在するし、2004年のヘビー級GPでは本来ミドル級のランデルマンが台風の目となり、GPを盛り上げたことも申し添えておきたい。
そしてもう一つ触れたいのが、既に一度開催しているという事実だ。記憶の彼方に置き去りにしている人もいるかと思うが、一番最初に開催されたPRIDE GP2000、この大会は無差別級だった。その後、2001年にはヘビー級・ミドル級が設立され、階級分けが進んだために無差別級は開催されなくなっている。しかしPRIDEの最初の設立の理念は「最強を決める」というもので、そもそも階級の枠を超えて戦うことを前提としていた。そうした意味で、PRIDEが無差別級を開催する下地は存在したし、設立当初の姿に返っただけ、と言えなくも無い。
ここまで主催者側に立った見方をしてきたが、最初に述べたように、自分の意見としては安全面を考慮すると否定的な立場だ。しかし既に開催は決定した。後はこの決定がPRIDEにとって、ファンにとって、そして何より危険を冒してリングで戦う選手にとって良い結果をもたらす事を期待する。
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by moonemblem
| 2006-01-17 03:00
| PRIDE